2022/04/11

 12時に起きる。晴れ。昨日の夜からぶっつづけで「王様ランキング」を一気に観た。おもしろかった。ボッジかわいかった。

 古くてあたらしい仕事』の残りを読もうとおもってひらき、ここも読んだ、ここも読んだ、とめくったらすべて読んでいた。そんなことがあるのか。読んだ感がなかったのか、まだまだ読みたいとおもっていたのか。いずれにしてもあまりないことだった。

 吉本隆明『最後の親鸞』を読む。文章に気迫がある。

 

 〈わたし〉たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。〈わたし〉は〈わたし〉が欺瞞に躓くにちがいない瞬間の〈痛み〉に身をゆだねることを拒否する。すると〈わたし〉には、あらゆる宗教的なものを拒否することしかのこされていない。(吉本隆明『最後の親鸞』,春秋社,p9)

 

 かっこいいね。

 

 そろそろ瞑想を再開したい。ここ数ヶ月は精神状態がほんとうによろしくなく、あらゆるものを憎悪して過ごしていたがそろそろ抜け出したい。しかし瞑想ではなく坐禅のほうがいいのではないかとおもいはじめた。瞑想には段階があるが坐禅にはない。だから意味の次元から存在の次元でおこなうのだというのが坐禅側の言い分である。もちろん瞑想側にも言い分はあるが、けっきょくどちらが自分に合っているかということなのだろう。いまは「なにもしない」という状態にありたかった。くわえて以前おこなっていたヴィパッサナー瞑想は毎日一日二時間やりなさいといっていて、とても無理だった。とはいえただ坐禅だけを在家でやるのはどうなのだろうか。むずかしいな。

 習慣をつくりたいのかもしれない。習慣はだいじである。そうおもえるようになったのはある程度回復したからなのだろう。ここ数ヶ月でうつの人の気持ちがわかった。三月のある時期はベッドに伏せていて、脳の回路が切れているみたいにからだが動かせなかった。いちばん危ないのは小康状態だとよくいわれるが、じっさい指も動かせないくらいのときに考えていたのは首を吊る具体的な手段で、死にたいではなく、どうやって死ぬかだった。死が間近にあると、この生がいままで感じたことのない軽みをもってあらわれた。なにかの遊戯というか、可能性のひとつでしかないというか、うまくいえないけど、いままで考えていた軽みやなにもなさではない生々しさがあった。しかしなんでこんなこと書いてるんだろう。とにかくこういうちいさい死を経て変わったり変わらなかったり乗り越えたり乗り越えられなかったり、そういったことをすべての人がやっているというのは途方もないことだった。とくにうつ病の人は日常的に経験するからものすごい体力を使うだろう。びがっぷ。

 よい状態とわるい状態の振幅のなかに人間は常にいるので、ある一点や一時期をさしてその人間をさすことはできない。よい状態と悪い状態の総体がその人だとおもうのだが、現代はそういう両義性をあまりみとめない。「健康で」「明るい」「良い」状態なんて存在しないのにね。