2022/04/12

 12時に起きる。晴れ。夢をみたが忘れた。瞑想三十分。瞑想をすると一日の時間の流れがゆっくりになる気がする。
 『バシャール×ナオキマンショー 望む未来に舵を切れ!』というyoutuberと宇宙人の対談本を読む。たまにみるyoutuberなので買ってみたが、宇宙人の生活様式などが書かれていて、我ながらなにを読んでいるのだろうとおもった。
 さて『最後の親鸞』である。悪人が悪をなす〈契機〉について。長いが、とてもいいので引用する。


 それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちにいってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって撰択できた出来事とは、いずれも大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して撰択した出来事は、主観的なものによって押しつけた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。一見するとこの考え方は、受身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に撰択できるようにみえるのは、たかだか観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。このことを洞察しえたところに、親鸞の〈契機〉(「業縁」)は成立しているようにみえる。
 ここまできて、この現世的な世界は、たんに中心のない漂った世界ではなく、〈契機〉(「業縁」)を中心に展開される〈不可避〉の世界に添加する。理由もなく飢え、理由もなく死に、理由もなく殺人し、偶発する事件にぶつかりながら流れてゆく相対的な世界ではなく、〈不可避〉の一筋道だけしか、生の前にひらけていない必然の構造をもつ世界がみえてくる。一切の客観的なあるいは主観的な恣意性が、〈契機〉を媒介として消滅することは、〈自由〉が消滅することを意味しているのではない。現世的な歴史的な制約、物的関係の約束にうちひしがれながら、〈不可避〉の細い一本道ではあるが〈自由〉へとひらかれた世界が開示される。(吉本隆明『最後の親鸞』,春秋社,p28~29)

 

 ここに書かれた親鸞の苦悩は吉本のそれでもあったはずだ。飢餓や地震でバタバタと人が死んでいった親鸞の時代と、終戦を二十代で迎えた吉本の時代がリンクする。それにしても、この文章の迫力はなんだろうか。

 

 最後の親鸞を訪れた幻は、〈知〉を放棄し、称名念仏の結果にたいする計いと成仏への期待を放棄し、まったくの愚者となって老いたじぶんの姿だったかもしれない。

  「思・不思」というのは、思議の法は聖道自力の門における八万四千の諸善であり、不思というのは浄土の教えが不可思議の教法であることをいっている。こういうように記した。よく知っている人にたずねて下さい。また詳しくはこの文では述べることもできません。わたしは眼も見えなくなりました。何ごともみな忘れてしまいましたうえに、人にはっきりと義解を施すべき柄でもありません。詳しいことは、よく浄土門の学者にたずねられたらよいでしょう。(『末燈鈔』八)〔著者訳〕(同上p55)

 この箇所を読んでぞっとした。畏怖という言葉がこれほどしっくりくるものもない。吉本のいう「本願他力の思想を果てまで歩いていった思想の恐ろしさと逆説」がここにはある。
 そういえばきょう『悟らなくたっていいじゃないか』という本を読み返して、そのなかに横田龍彦という画家の話が出てきた。この画家は五十代のときにおもいつめて参禅したのだが、そのさい「坐禅をすると絵が描けなくなるかもしれない」といわれたらしい。それでもいいからとつづけた結果、横田はそれまでのデモーニッシュな作風から離れ、東洋的なモチーフ(無常や自然)と西洋的な神秘主義を融合するような画風に至ったという。ここを読んだときに、以前みた講演の動画で吉本隆明が「言語の根本には沈黙があるのではないか」といっていたのをおもいだした。『言語にとって美とは何か』のなかに書いてあるのだろうから読まなければならないが、ともかくこの「沈黙」と表現(言語的、非言語的にかかわらず)には密接なつながりがあるらしい。そうして先の、目の見えない老いた親鸞のうしろにひろがるのもまた沈黙である。しかし私はどうしても吉本と親鸞二重写しで読もうとするらしい。晩年の吉本も目が見えなくなっていた。
 夜、『日本人は思想したか』を読み返す。吉本隆明梅原猛中沢新一の鼎談。近代文学は小説で、小説は人間中心主義で、そこから逃れている少ない例として宮沢賢治銀河鉄道の夜』と折口信夫死者の書』があげられていた。「私」にとらわれない三次元的な視点がこれらにはあるというが、それはまあ、この本の文脈でいえば宗教的な視点なのだろう。「未来の小説は詩に近づく」といったのは誰だったか。
 ねるまえ瞑想二十分。