2022/04/09

13時に起きる。晴れ。夢をみなかった。きょうも散歩をしようとおもった。悩むにしても、ねながら悩むのと歩きながら悩むのは悩みの質がちがっていることがわかった。人間は歩くようにできているらしい。島田潤一郎『古くて新しい仕事』が届いていたのでそれを読んでいたら15時過ぎになってあわてて家を出る。
 駅まで歩く。暑い。昔は冬が苦手だったけれどいまは夏のほうが苦手かもしれない。電車に乗る。人が多い。バッグにはきのう買った『あしたから出版社』と『古くてあたらしい仕事』を入れていた。どちらも島田潤一郎の書いたもので、私は『あしたから出版社』を大学のときに読んでいたく感動したのだったが、いま読み返してみると、自分がぜんぜん変わっていないとおもった。
 西荻窪で降りる。古本屋に入って本棚をみていた。しかしどうしたことか、だんだんと悄然とした気持ちになっていった。どうしてなのかわからないが、とにかくかなしくなった。なぜなのだろう。本屋はよいところだった。荷物が重くなったからなのかお腹が空いているからなのか足がだるいからなのか、そのどれもであるような気がしたしどれでもないような気がした。『これからの本屋』『澁澤龍彦集成Ⅴ』を買って店を出、近くの古本屋をめぐって吉本隆明『最後の親鸞網野善彦『異形の王権』を買った。良い買い物のはずだった、しかしどうしたことか気分はどんどん沈んでいった。こんな気持ちで買われては古本屋に対して失礼だろうとおもいながら歩いていると小川があり、なんとなくその流れに沿って歩いた。薄暗い底から川の流れる音がして、ほのかに水のにおいがした。道を曲がり、高架がみえたので今度はそれをたどると荻窪駅についた。駅のまわりをふらふらしているとあゆみブックスという本屋があったので入った。よかった。
 荻窪駅をしばらくふらつき、カフェに入って座ると、とたんに疲れが押し寄せた。これは、ただ疲れているだけなのではないか、とおもいながらも本を開く。『これからの本屋』。ところどころおもしろかったが(閉店した本屋の店主のインタビューはおもしろかった)読み進めるうちに、だんだんとかなしくなっていった。かなしくなりすぎだろ。それはともかく、場所を借りるか持つかして、本を入荷して、売る、というのが本屋だとおもっていたら冒頭、「本屋の定義を考えましょう」ということで、ネット上で開かれている本屋が紹介されていた。「うちの店は月にも支店を開けるんですよ」とその本屋をひらいている人はいっていて、著者はそれに可能性を感じているらしく、最後には「本は店ではなく人ではないか」と書かれていたのだが、一通り読んで「これらを本屋と呼ぶ必然性はどこにあるのだろう」とおもった。私が気になっていたのは、資本金とか月の売り上げとか経営の工夫とか、本が売れなくなっている中でお店の人はどうがんばっているかということだったので、そもそもこの本とは方向がちがうのだった。勝手に期待して勝手にがっかりしているので、文句はいうべきではないのかもしれない。たしかにあたらしいこころみはなされるべきなのかもしれない。ただなんというか、文化は空間であるはずだった。毎日道をとおるときに寄るとか、何年もそこに場所があるとか、そういった現実に持続性をもった空間がほんとうに生活に影響を与えるのではないか。SNSで本屋を開いても、それはツイッターのバズりのような、いっとき話題になって消えるだけの流行りにしかならないのではないか。そういう疑念を払拭できればとおもったが、そういうものはこの本のなかにはみつからなかった。「考える前に行動するのが大事」とも「行動しなければ考えなかったのと同じ」ともこの本には書いてあった。私は、なんだか、かなしくなった。「使えなくなったので定義や意味を変えちゃいましょう」というのは日本では昔からあることなので、これでもいいのかもしれない。ただ私はいままでの本屋を本屋とおもいたい。早晩そういう本屋のほとんどはなくなるだろうが、月に行くよりかはいいのではないか。