2022/04/14

 9時に起きて二度寝。13時に起きる。雨。夢は覚えていない。仏教の夢を見た気がする。
 なぜかボカロの「16ビットガール」という曲をおもいだして聞きたくなる。高校生のときに友達に勧めていた記憶があった、と遠い目をして検索したら「16ビ」と打った時点で予測候補にあがっていて嫌な予感がしたらAdoという人が歌っていて有名になっていた。正確にいえばAdoの「16ビットガール」は200万回以上再生されていたが曲をつくった人のそれは8万回再生くらいだった。複雑だった。それでも私の知っている「16ビットガール」の再生数は一万六千回くらいだったのでよかったのかもしれなかった。
 こういうことを書くと古参ぶりやがってといわれるかもしれない。実際そうなのかもしれない、新しいものを批判するのは頭が固い証拠だった。私の知っているボーカロイドは陽の目を浴びるようなものではなかった。アングラで、キリシタンが家でこっそり十字架を拝むみたいな、多かれ少なかれ気味のわるいものだった。だからハチが紅白に出ていたりするのがいまだにしっくりこないし、このAdoという人のこともよくわからなかった。ともかく、長くつづけていればちゃんと評価されることもあるということなのかもしれない。それはいいことだった。「16ビットガール」はいい曲だった。いまだに歌詞を覚えていた。

 仏教について。いままでの仏教は、声の大きいカリスマ的老師がいればお弟子さんがたくさんついて、それでなんとかもっていたらしい。またインターネットもなかったので情報がはいってこなかった。だから師匠にいわれた「これこそが真理だ」ということだけを信じて何十年も山に籠もり修行することが可能だったと。しかしインターネットに公案の答えがすべて載ってしまっているような時代に「真理」を信じるのはむずかしい。閉鎖性がかならずしもすべて悪というわけではないらしい。当たり前といえばそうだが。
 髪を切る。腕立てとスクワットをする。シャワーを浴びる。
 落語を聴く。三遊亭圓生の「死神」。落語は門外漢だけれどよかった。
 なんだか力がなくなってくる。どうしたことか。ぽつねんという感じだった。やりたいことがなくなってしまった。このうえはもう人助けをして一生を送ろうか。それもいいかもしれない。死んでいるのだか生きているのだかよくわからないという気は以前からしていたがいよいよ濃くなってきた。そういえば小学生のときに自分のからだが自分のものに感じないような感覚におそわれることが多々あり、親にいったら「離魂病じゃないか」といわれたことがある。いま調べたら夢遊病と同義らしい。いまではそんなことなくなったが。生きているのだか死んでいるのだかわからないのはもともとの性質かもしれない。
 はてなブログにして、閲覧数が少なくなってほっとした。noteのダッシュボードだと数百人と書いてあってびびっていたのだが、はてなブログにしたら一日の閲覧者数が10人もいなくて、いい感じになった。というかもともとこのくらいだったのがnoteの判定だと多くなっていたのだろう。おすすめに載るだけでカウントされていたのだろうか。note株式会社のミッションには「誰でも創作をつづけられるように」というようなことが書いてあり、多くの人のつづけるためのエンジンは承認欲求なので、いかにして他人から評価されていると感じさせるかという、意地悪ないいかたをするとそういう設計がされているのかもしれない。
 ねるまえ『荘子 第一冊』。

 一旦この人としての形を受けたからには、それを変えることなくそのまま[自然]にして生命の尽きるのを待とう。外界の事物に逆らって傷つけあっていけば、その一生は早馬のように過ぎ去って、ひきとめる手だてもない。なんと悲しいことではないか。生涯をあくせくとすごしてそれだけの効果もあらわれず、ぐったりと疲労しきって身を寄せる所も分からない。哀れまないでおれようか。世間でそれを死んではいないと言ったところで、何の役に立とう。[すでに死んでいるのと同じである。]その肉体がうつろい衰えて心もそれと一しょに萎んでしまったのである。大きな悲劇だといわないでおれようか。人の生涯というものは、もともとこのように愚かなものか。[もちろんすぐれた者がいる。しかしそれは成見にとらわれた者のことではないのだ](『荘子 第一冊』金谷治訳注,岩波文庫,p51-52)